渋沢栄一が設立に関わった保険会社・東京海上とは?
偉人・渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ『青天を衝け』の放送が、2021年2月14日より開始されます。
“日本資本主義の父”と呼ばれ、500社以上もの企業の設立に携わったことで知られる渋沢栄一ですが、今回紹介する「東京海上」も、彼が設立に携わった無数の企業の中の1つです。
東京海上グループで働いている人たちはもちろんのこと、保険業務に携わる人の中には、近年の“渋沢栄一ブーム”に対し、誇らしい気持ちを抱いた方も多いのではないでしょうか?
かくいう私もその一人。私自身も、かつて東京海上グループの保険商品の販売・関連業務に携わってきたこともあり、渋沢栄一が1万円札の肖像に採用が決定したり、大河ドラマの主人公となることが決まった際には、お客様との会話のネタにしたものです。
しかし、渋沢栄一が東京海上の設立に携わっている…ということは知っていても、果たして、彼がどのような理由で東京海上を設立したのか?
そして、東京海上が、後に“天下の東京海上”とまで言われるような大企業に成長していったのか?…その経緯まで知っている人は、保険業界で働いている人たちの中でも、特に若い世代の人たちであれば、それほど多くはいないでしょう。
そこで今回は、2021年の時の人=渋沢栄一が設立に携わった「東京海上」という会社について、その設立から今日に至るまでの簡単な歴史について振り返りたいと思います。
この記事を読んでいただくことで、
「保険とは、渋沢栄一をはじめとする歴史上の偉人たちが築き上げた揺るぎない近代システム」であり、
「保険が社会を支えるインフラとして重要な役割を果たしてきた」
…ということをあらためて強く実感できることと思います。
東日本大震災から10年、そして、コロナ禍により様々なゲームチェンジが起きつつある社会において、未来を切り開いていくためのヒントや勇気にしてもらえれば幸いです。
目次
第1章:渋沢栄一が設立を提唱…東京海上設立までの経緯とは?
(画像:東京海上のマスコットキャラクター、ジョーとセエメエ)
東京海上日動火災保険株式会社を中心とする東京海上グループは、現在、損害保険会社の「東京海上日動火災保険」、生命保険会社の「東京海上日動あんしん生命」を中心とした巨大な保険会社組織です。
そんな東京海上グループの母体とも言える東京海上日動火災保険は、今から142年前の1879年(明治12年)8月1日、渋沢栄一の提唱により、日本で最初の海上保険会社・東京海上保険会社として設立されました。
そして、“日本で最初の海上保険会社”の設立は、同時に、“日本で最初の保険会社”の誕生をも意味しました。
では、どのような経緯があり、日本で最も古い歴史を持つ保険会社・東京海上が設立されたのでしょうか?
東京海上保険会社の設立の経緯を知ることで、保険とは、ゆるぎない近代システムであることが理解できることと思います。
(1)東京海上誕生のルーツは、「占い」・「鉄道」だった!?
東京海上保険会社が誕生した明治初期の時代、当時はまだ鉄道やトラックによる輸送などが十分に発達していませんでした。
第一国立銀行(現:みずほ銀行)の総監役を務めていた渋沢栄一は、輸送手段の中心であった“海上運送”について、その輸送中の危険を担保する制度が国策として必要であると提案します。渋沢栄一の提唱により、東京海上保険会社は設立されることになるのです。
ただし、東京海上保険会社の設立に至るまでは、様々な紆余曲折があったといいます。
というのも、最初から海上保険会社を設立しようと計画していた訳ではなく、渋沢栄一は、もともとは鉄道事業を行うためのブレイン役として政府から招集されたメンバーのひとりでした。
この鉄道事業は、占いで有名な「高島易断」の開祖として知られる実業家・高島嘉右衛門(明治時代の初め、横浜港の埋め立て事業を手がけたことで横浜の発展に貢献し、その功績は現在も“高島町”という地名にも残っています。)が、鉄道敷設を強く政府に訴え、東京~青森間の鉄道建設の建白書を当時の右大臣・岩倉具視に提出。
そして、岩倉具視らの招集により動き出した鉄道建設プロジェクトの会計担当が、渋沢栄一だったのです。
渋沢栄一は、この当時から、すでに合本主義(株式会社)経営を唱えた最高権者という立場だったといいます。
しかし、このプロジェクトのために組織された東京鉄道組合は、華族(明治時代に誕生した元公家などの貴族階級)の資産運用のための側面もあり、鉄道事業の計画は、途中でとん挫してしまいます。
プロジェクトのブレインだった渋沢栄一は、その資金をもとに海上保険会社を設立することを華族に提案したのでした。
ちなみに、新ビジネスの候補は、海上保険会社以外にも、株式取引所の設立・北上川開墾野蒜の築港…といった案もあったようです。
(2)東京海上が“三菱(財閥)系”となっている理由
東京海上設立のキーマンは、渋沢栄一だけではありません。
そのキーマンとは、三菱財閥の創業者で“東洋の海運王”とも呼ばれた実業家・岩崎弥太郎です。
岩崎弥太郎は、幕末の時代、もともとは最下層の武士でありながらも、同郷・土佐藩の坂本龍馬らとともに海援隊を組織し躍進。
その後、実業家として三菱商会を設立し、明治政府の保護も受けながら海運業を独占すると、一代で三菱を10年で日本一の企業へと成長させていました。
(画像:岩崎弥太郎/いらすとや)
岩崎弥太郎は、渋沢栄一の海上保険会社設立の提案に対し、事業経営の方針の違いなどから当初は反対の姿勢をとったとされていますが、最終的には東京海上設立の筆頭株主となっています。この時、岩崎弥太郎は46歳。渋沢栄一は40歳でした。
東京海上の創業当時、東京海上の株主には岩崎弥太郎をはじめとする三菱関係者、経営陣も三菱関係者が取締役を務めるなど、東京海上グループは、現在も“三菱(財閥)系”と言われますが、そのルーツはまさにここにあったことが分かります。
ちなみに、事業経営の利害関係から、岩崎弥太郎と渋沢栄一は、その後も対立していく…という点は興味深いところです。
また、東京海上設立時の筆頭株主には、岩崎弥太郎以外にも、旧徳島藩主の大名で華族・蜂須賀家の蜂須賀茂韶(はちすか もちあき)が名を連ね、岩崎弥太郎に継ぐナンバー2の立場にありました。
こうして東京海上設立の経緯を確認していくと、政治家・財閥・華族などが設立に深く関わっている一大組織であったことが分かります。
その後、東京海上が、“天下の東京海上”と呼ばれるようになった理由は、このような設立経緯もあってのことでしょう。
(3)日本で初めての保険会社・東京海上が生まれた背景
ここまでは、東京海上設立の背景を簡単に紹介してきましたが、そもそも渋沢栄一は、これまで日本になかった保険会社の設立を提案することができたのでしょうか。
これは、渋沢栄一が、幕末にフランスへ渡り、会社経営を学んだことによるものです。
そもそも日本の近代的な保険制度は、現代の1万円札の肖像でもある福沢諭吉が書いた「西洋旅案内」のなかで、“災難請負ノ事インシュアランス”と紹介したことがはじまりとされています。
また、教育者である福沢諭吉自身が保険会社の経営に関わることはなかったものの、福沢の門下生である阿部泰蔵が、日本初となる生命保険会社「明治生命」を設立しています。
(画像:福沢諭吉/いらすとや)
渋沢栄一と福沢諭吉…新旧1万円札の肖像となっている2人が、日本における保険会社のはじまりを創った…という点は面白いですよね。
尚、近代的な保険システムについて、世界全体を見渡せば、東京海上が誕生する5世紀も前の14世紀、イタリアの商業都市であるピサ・フィレンツェ・ジェノヴァなどの商業都市において海上保険として生まれたとされています。
そして、“近代的な保険システムが、海上保険から始まる”ということが通説となっているようですが、これは、日本においても例外ではなかったということですね。
保険とは、渋沢栄一をはじめとする歴史上の偉人たちが築き上げた、揺るぎない近代システムなのです。
第2章:渋沢栄一が設立した東京海上保険…その後のストーリー
さて、ここからは、渋沢栄一の提唱によって設立された東京海上が、その後、どのような歩みを経て現代に至ったかを紹介したいと思います。
東京海上は、明治維新の中で産声を上げ、関東大震災・太平洋戦争・復興・高度成長・グローバル・大規模自然災害…など、日本社会とともに深く関わり歩んできました。
その歴史を知ることで、保険会社の存在意義とは何か?を、あらためて理解することができるはずです。
(1)東京海上という企業は、最初からグローバルだった
現在の東京海上日動では、日本全国に転勤する可能性のある社員を“グローバル”と呼んでいるようです。
これまでは“全国型”と呼ばれていましたが、日本全国だけでなく海外に転勤する可能性もあるという点や、グローバル社会への対応・意識を高めるために、近年このようなネーミングに切り替わったそうです。
実際、東京海上をはじめとする大手保険会社の多くは、現在、世界の各地に海外拠点を持っていたり、海外企業の買収なども行っています。
しかし、東京海上は、設立まもない明治時代の時期から、“TOKIO MARINE”として海外でその名を知られることになります。
その立役者が、各務健吉(かがみ けんきち)と平生釟三郎(ひらお はちさぶろう)です。
(画像:上が各務健吉、下が平生釟三郎/「東京海上ロンドン支店」より)
2人には、当時、東京海上入社4年目の若手社員で、岐阜県出身、且つ東京高商(現在の一橋大学)出身という共通点もありました。
各務健吉と平生釟三郎は、イギリス代理店の業績悪化から苦境にあった東京海上保険の再建のヒントを求め、保険先進国のイギリス・ロンドンへ渡り、保険業務の研究を行います。
そして、各務健吉は、損失を招いてしまった原因をつきとめ、未経過の保険料を利益とみなしてしまう「現計計算」から「年度別計算」への移行を進めると、見事に業績回復を実現。
これがきっかけとなり、東京海上を国際的な企業へと発展していくこととなりました。
ちなみに、この各務健吉は、丸の内にある東京海上本社のとあるフロアに現在も肖像画が掲げられているのですが、彼のことを知らない従業員も多いようです。
彼の偉業は、下記の(3)でも紹介したいと思います。
(2)日本で初めの「ビルディング」
(現在の東京海上ビルディング本館)
東京駅・丸の内のすぐ近く、皇居のお堀の前にある東京海上グループの本社ビル(=東京海上ビルディング本館)は、赤レンガが印象的です。
この赤レンガビルは、1974年(昭和49年)3月に竣工され、その隣のビルの新館は、1986年に竣工されました。
もともと東京海上ビルディング本館は1918年に竣工され、もともとの新館は1930年に竣工されましたが、昔も今も立地場所は変わっていません。
この丸の内界隈は、明治時代、岩崎弥太郎が政府から払い下げられた土地だったため、その歴史が現在も続いているということになります。
(旧東京海上ビルディング本館)
東京海上の社史によると、東京海上ビルディング本館は「東京海上ビルディング」と称されていましたが、当時、日本の建物に「ビル(ビルディング)」という名称が使われたのは、この「東京海上ビルディング」が初めてだったと伝えられています。
ちなみに、大正時代の流行歌『東京節』の歌詞には、当時の東京を象徴するスポットが紹介されていますが、その一節に“海上ビルディング”というフレーズも登場します。
こういった点からも、東京海上は“モダン”な会社だったということが分かりますね。
関東大震災にも耐え、第二次世界大戦時は空襲にも晒された東京海上ビルヂングは、戦後、旧館・新館ともに占領軍が接収。その期間、旧館は、海上ホテル(Old Kaijo Hotel)と称され婦人宿舎に、新館は、”Far East Air Forces”本部となっていました。
その後、三菱が払い下げを受け、丸の内が再び開発され、現在に至るという訳です。
(3)関東大震災における保険対応
約10万人の人命が失われた関東大震災(1923年)では、上記に紹介した各務健吉が奮闘することとなります。
当初、火災保険において、地震による火災は、約款上、対象外であり、保険会社に保険金の支払い義務はありませんでした。
しかし、被災者や世間からの保険会社に対する非難が起こります。
さらに、当時の山本権兵衛内閣も「保険事業の如きは其の性質上社会公衆の安固を目的とするものなるを以て此の重大なる事変に顧み幾十万の信頼に背かざるよう犠牲の精神を発揮して慎重の考慮を尽くし~」というメッセージを保険会社へ発信すると、日本弁護士協会も「支払いの義務あり」と決議します。
当時、火災保険会社をとりまとめていた大日本連合火災保険協会(現日本損害保険協会)の結成に尽力し、震災時に会長を務めていた各務健吉は、保険会社の設立以来、過去に遭遇したことのない難事案に直面したのです。
火災保険会社が保険金を支払う場合、関東を拠点とする保険会社と、関西を拠点にする保険会社とでも利害が異なります。また、外資系の保険会社からの意見などもあり、保険業界内でも様々な意見の対立があったようですが、各務健吉は、様々な調整や取りまとめを行い、政府と折衝することとなります。
そして、最終的には、本来、地震による火災は免責であるものの、社会的役割を担う保険会社として、保険金額の最高10%を「見舞金」として支払い、その見舞金は、政府が助成金によって長期の低金利で融資する…という取り決めに至りました。
このような功績が称えられ、各務健吉は、日本人で初めて(※)、保険業界人として世界的な栄誉である『保険の殿堂』の一員に選出されたのでした。(※第一生命・矢野恒太とともに選出)
(画像:東京・飛鳥山にある渋沢資料館)
さて、その頃、渋沢栄一はというと、兜町の渋沢事務所で大震災の瞬間に遭遇したといいます。
当時83歳だった渋沢でしたが、被災者のために尽力。
すぐに埼玉県から米を取り寄せ、滝野川町での炊き出しを斡旋し、飛鳥山(王子)渋沢邸はその拠点となりました。
そして、その後、収容所・炊出場・情報案内所・掲示板・臨時病院など…罹災者のための施設設置したり、大震災善後会を結成し、民間有志による救護・復興の活動を促す旗振り役を行いました。
現在も著書『論語と算盤』(1916年)で知られる渋沢栄一ですが、論語で言うところの“仁”をまさに実践したのでした。
(4)震災・台風・大雨…大規模自然災害への対応
ここからは、時を越え、現代のお話です。
大規模自然災害が頻発している近年、保険会社は、社会インフラとしての重要な役割を果たしています。
まだまだ記憶に新しい2011年に発生した東日本大震災による地震保険金の支払いは、 1兆2,749億円(※1)
また、生命保険協会によると、東日本大震災における死亡保険金の支払い保険金の総額は、1,599億3,445万円、支払い件数は、21,027件(※2)にも及びました。
東日本大震災が発生した当時、奇しくも、損害保険会社すべてを束ねる日本損害保険協会の会長を務めていたのは、当時、東京海上ホールディングス社長だった隅修三氏。
損害保険業界では、航空写真と衛星写真を活用したり、津波によって甚大な被害が生じた地域に対しては、地域全体を“全損扱い”として一括認定をするなど、迅速な保険金支払いのために、前例にとらわれない柔軟な対応の実現に尽力しました。
関東大震災(1923年)の発生時、日本損害保険協会の前身組織の会長を務めていた各務健吉。
そして、東日本大震災の発生時、日本損害保険協会の会長を務めていた隅修三。
時を越え、奇しくも、東京海上が生んだリーダーたちは、保険業界全体のリーダーとして、大震災の対応に尽力することとなったのです。
ちなみに、隅修三氏も、東日本大震災での対応の功績などが高く評価され、2018年、「保険の殿堂」入りを果たしています。
しかし、東日本大震災後も、日本では大規模な自然災害が毎年発生しています。
震災・台風・大雨…これらのいずれの補償もカバーできるものこそ、東京海上をはじめとする損害保険会社が扱う保険なのです。
さらに、このような大規模自然災害は、世界全体で今後もさらに増加していくことが予測されています。
日本においては、南海トラフ地震などの発生も危惧されています。
東京海上をはじめとする損害保険会社はもちろん、保険業界全体が、これらの大災害を乗り越えるための準備に直面しているのです。
※1…出典:日本地震再保険株式会社調べ(2017年3月)
※2…出典:「東日本大震災に係る保険金のお支払件数・金額について(平成25年3月末時点)」/生命保険協会
(5)テクノロジー活用、次世代サービスへの対応
インターネットやAIの台頭により、様々な社会変化が起きていますが、今まさに保険業界も様々な変革が求められており、東京海上グループもその例外ではありません。
保険業界全体でも、保険業務や保険商品の開発に、テクノロジーやビッグデータを活用した“InsurTech”(インシュアテック)と呼ばれる分野の活動が積極的に行われています。
他にも、サイバーテロに備えた保険、自動運転やカーシェアサービスなどの「Case」や「MaaS」と呼ばれる次世代モビリティ社会に向けた保険の対応なども行っています。
(画像:自動運転の様子/いらすとや)
その中でも、本記事ライターが特に印象的だった最近のニュースは、2020年7月、東京海上日動とJR東日本(東日本旅客鉄道)と、MaaSサービスを活用した新たな保険サービスの共同開発のニュースでした。
というのも、JR東日本は、東京海上日動と同様、渋沢栄一との関わりがとても深い会社だからです。
渋沢栄一という人物は、本記事の第1章にも紹介した“鉄道事業”にも深い関わりを持っていた人物で、日本鉄道(東京~青森)、日光鉄道(宇都宮~日光)、北越鉄道(直江津~新潟)、岩越鉄道(郡山~新潟)など、いくつもの鉄道会社の設立計画に彼が携わっていました。
そして、東日本のこれからの鉄道会社は、1906年(明治39年)の鉄道国有法により国有化され、その後、現在のJR東日本となったのです。
保険に鉄道…もちろん渋沢栄一が設立に関わった事業はこの限りではありませんが、渋沢栄一が始めた社会インフラ事業は、100年以上もの時を越え、ますます重要な役割を果たしているという点で、本当に驚くべきことだと言えるでしょう。
あらためて、第2章で紹介した東京海上という企業の歩みは、まさに日本社会の変動と二人三脚であり、社会インフラとしての保険の重要性を十分に理解するには十分過ぎるのではないでしょうか。
まとめ:大河ドラマ『青天を衝け』で、東京海上は登場する?
さて、今回は、偉人・渋沢栄一が設立に携わった「東京海上」という会社について、その設立から今日に至るまでの簡単な歴史について振り返りました。
本記事を通して、保険とは、歴史上の偉人たちが築き上げた揺るぎない近代システムであり、保険が社会を支えるインフラとして重要な役割を果たしてきた…という点をあらためて実感していただけたら幸いです。
また、昨今では、「若者の保険離れ」なども危惧されたり、インターネットや書籍では「保険不要」のような論調も一部ありますが、これまでの保険会社の歩みを知ることで、“臆することなかれ”と先人たちが背中を押してくれるような気持ちを抱いた方もいるのではないでしょうか。
大河ドラマ『青天を衝け』は、渋沢栄一の幼少期から、33歳となり民間改革に着手していくところまでを描いた作品…と、番組公式ページでは紹介されています。
渋沢栄一が東京海上を設立したのは、39歳の1879年なので、今回紹介した保険会社設立までのエピソードがドラマ内で取り上げられることはないかもしれません。
しかし、2021年は、東日本大震災からちょうど10年という節目のタイミング。。
渋沢栄一が設立した保険会社が、大正時代に起きた関東大震災においても、また、現代の大震災・自然災害においても社会的インフラとして重要な役割を果たしていること、そして、保険の重要性は、社会の変革期を迎えている現代だからこそ、今後さらに高まっていく段階にあります。
より多くの人たちに保険の重要性を知ってもらうために、大河ドラマ『青天を衝け』では、保険会社の設立に触れるようなシーンが登場することを期待したいものですね!
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●参考文献:
・「東京海上ロンドン支店」(新潮文庫/1982)
・「あすなろ まいにのなかに見え隠れするもの。」(幻冬舎/2007)
・「新・保険学」(有斐閣アルマ/2006)
・東京海上ホールディングス ホームページ
・公益財団法人 渋沢栄一記念財団 ホームページ
●ライター:
●名前:うっちー (@uchi3333)
●東京都在住30代。
●経歴:レコード会社から国内保険会社へ転職し、生命保険営業・保険代理店支援・損害保険サービス等を担当。現在も、現役で保険業界で働くwebライターとして活動しています。