島耕作のモデルは、東京海上グループ相談役・隅修三氏?その理由は?

2019年、マンガ『島耕作シリーズ』の主人公・島耕作が、“相談役”に就任し話題となりました。

2013年8月からは『会長 島耕作』が週刊モーニングで連載されていましたが、2019年8月から主人公・島耕作が会長職から相談役に退くというストーリーに合わせ、同誌で『相談役 島耕作』の連載がスタート。

島耕作シリーズは、今から37年前、1983年に『課長 島耕作』からスタートし、部長⇒取締役⇒常務⇒専務⇒社長⇒社長⇒会長…と、島耕作の出世とともにシリーズタイトルが変わることでも注目を集めてきたサラリーマン向けの人気マンガ作品です。

 

 

まさに傷ひとつとない、順風満帆の出世コースを歩んできた“サラリーマンの鏡”としても評判の島耕作ですが、実は、島耕作のキャラクターには、モデルとなる人物がいたことをご存知でしょうか?

今回は、島耕作のモデルとされる人物、そして、その人物が島耕作のモデルとなった理由について紹介します!

1.島耕作のモデルは、東京海上グループ相談役・隅修三氏

 

島耕作のモデルとなった人物とは、ズバリ…

損害保険会社の雄・東京海上日動火災保険株式会社の相談役・隅修三氏(72)です。

 

東京海上日動火災保険株式会社と言えば、大学生の就職したいランキングでも上位に入る言わずと知れた一流企業。

創業は、なんと141年前(!)の明治12年(1879年)。

2019年、新1万円札の新たな顔としても起用されることが発表され話題となった渋沢栄一氏が創業に携わった会社でもあります。

 

参考:東京海上関連の記事

tokyo.marine.oficce

「東京海上グループ若手社員の有志団体「Tib(ティブ)」のイベントに潜入!」

「東京海上創業者・渋沢栄一ゆかりの地「渋沢史料館」に行ってみた」

 

 

現在、島耕作と同じ相談役を務める隅修三氏は、1947年生まれの72歳。

そして、やはり島耕作と同じく、山口県岩国市の出身。

さらに、1970年に早稲田大学法学部を卒業し、その後、大手企業に就職した点も島耕作と同じです。

まさに、隅修三氏は、島耕作のモデルとなった人物なのです。

 

しかし、『課長 島耕作』の物語で、島耕作が就職した会社は当時の家電メーカー・松下電器(現:パナソニック)をモデルとした企業“初芝(はつしば)”です。

さらに、島耕作には、たびたび松下電器の創業者・松下幸之助をモデルとした人物も登場します。

そう、島耕作には、隅修三氏が働いている保険業界や東京海上をモデルとした企業は登場しません。

 

では、島耕作のモデルが、東京海上グループ相談役・隅修三氏になった理由はどのようなものだったのでしょうか?

2.島耕作のモデルが、東京海上グループ相談役・隅修三氏になった理由は?

島耕作のモデルが、東京海上グループ相談役・隅修三氏になった理由は、

ズバリ、隅修三氏の同級生が、島耕作シリーズの作者・弘兼憲史氏の幼なじみだった!…からです。

 

隅修三氏と弘兼憲史氏は、山口県岩国市にある高水高校付属中学校の同級生。

同じクラスで、隣の席にもなったことがある程、身近な存在だったといいます。

さらに、その後、2人が1970年に卒業した出身大学も、早稲田大学。

そして、早稲田大学卒業後、隅修三氏は東京海上へ、弘兼憲史氏は松下電器へ就職しました。

 

 

また、弘兼憲史氏は、松下電器で広告宣伝部に配属されるのですが、作品内で主人公・島耕作が配属されるのも広告宣伝部。

そう、島耕作のモデルは、もともとは隅修三氏ではなく、作者である弘兼憲史氏自身だったのです。

では、隅修三氏が島耕作のモデルとなったのはいつからでしょうか?

そして、その理由は…?

 

これは、弘兼憲史氏が、隅修三氏と同窓会で再会した際に、出世街道を突き進む幼馴染の隅修三氏をモデルにしよう!…と思ったことがきっかけだったそうです。

弘兼憲史氏は、松下電器でのサラリーマン生活は、3年間しか体験していなかったことから、

“隅修三氏が常務になったとき、「そうか、じゃあ島耕作を常務にしよう」。専務になったときは専務にと、彼に合わせて。”

と、かつてのメディアでのインタビューで明かしています。

 

 

その後、実際に隅修三氏が、2007年に社長、2013年に会長、2019年に相談役となる訳ですが、まさに二人三脚状態。

島耕作も2007年に社長、2013年に会長、2019年に相談役のシリーズがスタートしていったのです。

 

 

3.東京海上相談役・隅修三氏の活躍ぶりも、「島耕作」の作品ストーリーに反映?

 

東京海上グループ相談役・隅修三氏の活躍ぶりは、島耕作シリーズのタイトルだけでなく、作品のストーリーにも反映されています。

しかし、リアルの世界とまったく同じ…という訳ではありません。

例えば、『会長 島耕作』では、会長・島耕作が、経団連の副会長への就任を固辞して経済同友会に転じますが、隅修三氏は、島耕作とは逆に、経済同友会副代表幹事を辞して、経団連副会長に就任しています。

 

それでも、この作品ストーリーのきっかけとなったのは、隅修三氏の活躍ぶりであることには違いありません。

実際、経団連・同友会・日本商工会議所(東京商工会議所を含む)の経済3団体では、副会長・副代表幹事・副会頭などの重要ポストの兼務はしないことになっています。

そのため、当時、同友会の副代表幹事を務めていた隅修三氏は、その職を辞して、経団連の副会長に就任したのです。

 

ちなみに隅修三氏は、現在、実業界での手腕が評価されて経団連の副会長を務めていますが、トップクラスと評されるほど財界活動への影響力を持っているとされています。

サイバーセキュリティに関する提言をすれば、政府内でもサイバーセキュリティー対策に向けたさまざまな動きが始まる…など大きな影響力を持つ“スーパービジネスマン”なのです。

隅修三氏は、まさに、島耕作のような人物なのです。

4.島耕作のモデルで、東京海上グループ相談役・隅修三氏の功績とは?

 

現在では、役職だけでなく、その仕事ぶりに至るまで島耕作のモデルとなっている隅修三氏ですが、そもそも隅修三氏とはどんな功績を残してきた人物なのでしょうか?

いくつか、その功績を紹介していきましょう。

(1)社内改革を推進!

隅修三氏は、東京海上日動で常務取締役を務めていた2000年代前半に、同社における“仕事のやり方抜本改革プロジェクト”をけん引した人物として知られています。

同プロジェクトでは、商品そのもの・事務手続き・システムITインフラ・保険会社や代理店の仕事のやり方などを抜本から改革していくために、そのリーダーシップを執ったそうです。

(2)損害保険協会会長として東日本大震災の対応に

また、2011年に東日本大震災が発生した当時、隅氏は、東京海上ホールディングス社長であり、損害保険会社すべてを束ねる日本損害保険協会の会長を務めていました。

損保業界では、航空写真と衛星写真を活用して、津波により甚大な被害が生じた地域に対し、地域全体を全損として一括認定をしたり、迅速な保険金支払いのため、東日本大震災の被災状況等を踏まえた前例にとらわれない柔軟な対応の実現に尽力しました。

その結果、損害保険業界としては、大震災発生から約3ヶ月間で約50万件、約1兆円の保険金を被災者に支払うことができた…とされています。

(3)日本人で史上11人目の「保険の殿堂」へ

そして、このような功績が認められ、2018年、保険業界人として世界的な栄誉である「保険の殿堂」入りを果たしました。

140年以上の歴史を持つ日本の保険業界人でも、これまで10人しか殿堂入りを果たしていない偉業を達成したのでした。

ちなみに「保険の殿堂」は、全世界を対象として、保険事業の発展のために理論・ 実践面で長い期間に渡って革新的・創造的貢献をしたと認められる人物に授与されるものです。

参考:保険の殿堂とは?

「保険の殿堂」とは?日本人の受賞者まとめ

hokennodendou

 

おすすめ記事紹介

 

さて、今回は、島耕作のモデルとされる人物・隅修三氏について、そして、隅修三氏が島耕作のモデルとなった理由について紹介しました。

島耕作シリーズは、ビジネスマンの出世ストーリーでもあり、ラブストーリーでもあり、社会情勢なども反映した情報量の多い作品として、ずっとサラリーマンに勇気を与えてきた作品です。

その人気の秘密のひとつには、リアルな人物の生き様を反映してきた…という理由があることが分かりましたね!

 

ちなみに、今回紹介した隅修三氏が働いている保険会社・東京海上グループは、過去に当サイトでもたびたび紹介してきました。

特に、東京海上グループで活躍する若手人材に直撃インタビューを敢行したコチラの記事は、若手サラリーマン必見!

未来の“島耕作”たちが発見できるかもしれません。

 

☞参考記事:東京海上グループ若手社員の有志団体「Tib(ティブ)」の発起人&広報担当者にインタビュー!

tokyomarine.tib