広島カープ・津田恒美さん、悪性脳腫瘍の闘病経緯
プロ野球選手の津田恒美さんは、悪性脳腫瘍により、1993年、32歳という若さで亡くなりました。
津田選手と言えば、“炎のストッパー”と呼ばれ、広島東洋カープの抑え投手としてリーグ優勝などに貢献。
現役生活10年の中でオールスターゲームに5回も出場するなど、1980年代の強いカープを象徴する選手の1人として活躍しました。
今回は、津田恒美さんの悪性脳腫瘍の闘病の経緯についてご紹介します。
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津田恒美さんのプロフィール
もう一度、投げたかった―炎のストッパー津田恒美最後の闘い (幻冬舎文庫)
●出身地:山口県都濃郡南陽町(現:周南市)
●生年月日:1960年8月1日
●出身高校:山口県立南陽工業高等学校
●身長/体重:181cm/79kg
●右投右打
●プロ入り:1981年、広島東洋カープにドラフト1位で入団。
●初出場:1982年4月10日
●タイトルなど:新人王(1982年)、最優秀救援投手(1989年)
津田恒美さん、悪性脳腫瘍の闘病の経緯
●1990年
・シーズン終了後から、頭痛など身体の異変が現れはじめる。
●1991年
・4月、広島大学病院に検査入院。精密検査の結果、悪性の脳腫瘍があることが判明。
・本人への告知はあったものの、球団は混乱を避けるため「水頭症」による引退を発表。
・自宅や実家での療養を経て、済生会福岡総合病院(福岡市中央区)へ転院。
・退院後は、現役復帰に向けたトレーニングも行う。
●1992年
・6月、再び病状が悪化。
・8月、済生会福岡総合病院へ再入院。
●1993年
・7月20日、日済生会福岡総合病院にて逝去。
津田恒美さん死去、その後…
直球勝負を武器としたスタイルや明るい人柄などで多くの仲間やファンに愛された津田選手。
彼が遺した功績はとても大きく、津田選手が亡くなった後も、その魂は様々なところに受け継がれます。
2000年には、津田選手の奥さん・晃代さんによる著書『最後のストライク』が、岸谷五朗さん主演でドラマ化。
津田選手の存在は、野球ファンのみならず、さらに一般の多くの人にも知られることとなります。
最後のストライク―津田恒美と生きた2年3カ月 (幻冬舎文庫)
その後も、2012年には、野球界の発展に大きく貢献した人物を称える「野球殿堂」入りを果たしたり、津田選手の地元・山口県周南市の野球場が「津田恒実メモリアルスタジアム」と名付けられる、いかに津田選手が野球界関係者、ファンに愛された選手だったかが伺えます。
そして、現在、津田選手がつけていたカープの背番号「14」は、若きエース・大瀬良 大地(おおせら だいち)投手へそのバトンが引き継がれています。
大瀬良選手は、目標とする投手に津田選手を挙げ、プロ入り1年目から新人王を獲得するなど、現在の常勝カープを支える原動力となっています。
2018年7月には、津田選手の長男・津田大毅さんがクラウドファンディングにより資金を集め、「津田恒美記念館」を広島に開館する準備を進めているようです。
写真:カープの新本拠地であるマツダスタジアムにある「津田プレート」。
広島市民球場時代は、カープの投手が、投球前に必ずこのプレートに触れていくというエピソードもありました。
(画像:wikipediaより)
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参考)がん闘病したプロ野球選手まとめ
津田選手だけでなく、プロ野球選手には、これまでがん闘病を経験された方が多くいらっしゃいます。
今年2018年に亡くなられた星野仙一さん、衣笠祥男さんも、その1人です。
また、現在は解説者として有名な大島康徳さんは、最も進行した状態を表す“ステージ4”の宣告を受けながらも、積極的にブログを更新したりプロ野球の解説も行うなど、がんと向き合い闘病生活を送っています。