ホークス藤井将雄投手の末期肺がん闘病…現在も愛される背番号「15」

プロ野球選手の藤井将雄さんは、2000年、末期の肺がんにより31歳という若さで亡くなりました。

当時、藤井選手は、投手として福岡ダイエーホークス(現・ソフトバンクホークス)に所属。
“炎の中継ぎ”と言われ、がんが発覚した1999年も、チームを26年ぶりのリーグ優勝、35年ぶりの日本一に導くなど大活躍をおさめていました。

今回は、藤井将雄選手のがん闘病の経緯をご紹介します。

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藤井将雄さんのプロフィール


ダイエー・藤井将雄物語―宙に舞った「藤井ハリー」 

●出身地:佐賀県唐津市湊町
●生年月日:1968年10月16日
●身長・体重:177 cm、72 kg
●右投右打
●ポジション:投手
●プロ入り:1994年 ドラフト4位
●初出場:1995年5月30日
●出身高校:佐賀県立唐津商業高等学校
●日産自動車九州~福岡ダイエーホークス (1995 – 2000)
●タイトル:最多ホールド投手:1回 (1999年)

藤井将雄さんの肺がん闘病経緯

●1999年
・夏頃から、試合中のマウンドでも咳き込むようになる。
・10月、日本シリーズ開始前に検査を行い、医師からは入院が勧められたが「迷惑をかけたくない」と日本シリーズにも登板。
・11月、日本シリーズの優勝パレード参加後に精密検査を行い、その2日後に“余命3か月の末期の肺がん”が発覚し、入院。
・宣告を受けた家族は「野球をできなくなると知れば、生きる希望を失ってしまう」と、藤井さん本人には知らせず、球団の上層部や王監督や若田部健一投手など一部のチームメイトなど身近な人のみが知らされる。本人には、間質性肺炎と偽った病名が伝えられた。

●2000年
・入退院を繰り返しながらも、2軍の試合で6試合登板。
・6月末、国立病院九州医療センターに再入院。
・10月、心臓や肺に水が溜まる状態が続く。13日、病状が急変。逝去。

がん発覚も「契約更新・年俸倍増」…王監督の計らい

“生きる希望を失って欲しくない”

藤井選手のご家族の想いを受けて、球団側、王貞治監督は、がんの発覚後も藤井選手の来季の契約更新を決めます。また、日本一に貢献した藤井選手の功績から、年俸も倍増という計らいをします。厳しいプロ野球の世界で、なんとも人間味溢れる対応ですね。

2000年のシーズンに入り、王監督は入退院を繰り返しながらも2軍で調整を続けていた藤井選手に対して「はやく一軍にあがってこい」とエールを送ります。しかし、藤井選手は「まだ結果も出せていないのに1軍には上がれない」と返答するといったやりとりもあったそうです。

藤井選手が1軍に登板することはありませんでしたが、ホークスは2000年も2年連続でリーグ優勝を果たします。
藤井選手も病室でその光景を見届け、約1週間後の10月13日に31歳で亡くなります。
余命3か月の宣告から、約1年後のことでした。

現在も愛される背番号「15」

(画像:藤井ゲート / ソフトバンクホークス公式HPより)

現在、藤井選手が在籍していた福岡ドームの15番通路は、藤井さんの背番号にちなみ“藤井ゲート”と呼ばれています。藤井ゲートには、藤井選手のコメントが書かれたプレートが設置され、藤井選手の功績とチームや仲間に愛された証が刻まれています。

また、藤井選手の付けた背番号「15」は、藤井選手の死から20年近く経った現在でも、準永久欠番として誰にも使用されていません。球団の彼への特別な想いが感じられます。

もともとホークスは、1999年に日本一を果たすまでは、毎年、リーグの下位を争うチームでした。

しかし、藤井さんの最後の1軍マウンドとなった1999年の日本一以降は、何度もリーグ優勝や日本一を果たすなど常勝チームへと変化していきました。この過程には、球団や選手たちに「野球をしたい」という強い想いを持って亡くなっていった藤井選手の存在があったに違いありません。

参考)がん闘病したプロ野球選手まとめ

藤井選手だけでなく、プロ野球選手には、これまでがん闘病を経験された方が多くいらっしゃいます。

今年2018年に亡くなられた星野仙一さん、衣笠祥男さんも、その1人です。

また、現在は解説者として有名な大島康徳さんは、最も進行した状態を表す“ステージ4”の宣告を受けながらも、積極的にブログを更新したりプロ野球の解説も行うなど、がんと向き合い闘病生活を送っています。

☞ がん闘病したプロ野球選手一覧、大島康徳氏の現在を調べる

【特集】癌(がん)闘病したプロ野球選手まとめ…大島康徳氏の現在は?