藤井将雄氏の命日にCS優勝!常勝ホークスの原点・背番号15

10月13日、プロ野球CSファイナイルシリーズ第4戦・西武ライオンズ対福岡ソフトバンクホークスの試合が、メットライフドーム(所沢)で開催された。

試合は、ホークス今宮の3本のホームラン・グラシアルのホームランなどにより、ライオンズ3-9ホークスで、ホークスの勝利。シーズン2位で下剋上としてCSシリーズに挑んだホークスが、日本シリーズへの進出を決めた。

 

さて、このゲーム、一時は前日12日の台風19号の影響によって開催も危ぶまれたが、台風一過の青空のもと予定通り執り行われた。

そして、“青空の上ではきっと「彼」が見守っていてくれる”…そう思いながら、この日の特別な試合に臨んだホークスの選手・関係者・ファンたちも多かったはずだ。

「彼」とは、まさに今日10月13日に19回目の命日を迎えた元福岡ダイエーホークス投手・藤井将雄(享年31才)のことだ。

 

今回のCSファイナイルシリーズでも、相変わらずの勝負強さを見せつけているホークスだが、25年前まで弱小チームだったホークスを、常勝チームへと変えていったのは、全盛期に若くしてこの世を去った投手・藤井将雄の魂に他ならない。

スポンサードリンク



10月13日に19回目の命日を迎えた藤井将雄投手


ダイエー・藤井将雄物語―宙に舞った「藤井ハリー」をAmazonで購入する

●出身地:佐賀県唐津市湊町
●生年月日:1968年10月16日
●身長・体重:177 cm、72 kg
●右投右打
●ポジション:投手
●プロ入り:1994年 ドラフト4位
●初出場:1995年5月30日
●出身高校:佐賀県立唐津商業高等学校
●日産自動車九州~福岡ダイエーホークス (1995 – 2000)
●タイトル:最多ホールド投手:1回 (1999年)

目標は「王貞治監督を胴上げすること」

藤井将雄は、社会人野球を経て、1994年、26才のときにドラフト4位で当時の福岡ダイエーホークスに入団した。

彼の入団当初からの目標は、「王貞治監督を胴上げする」ことであった。

後にこの目標を達成する藤井だが、王貞治という存在も、後にこの藤井の生涯を語る上で欠かせない重要な人物となる。

 

藤井は、入団1年目から先発投手として4勝を飾り、まずまずのスタートを切ったが、その後は伸び悩み、3年目以上は中継ぎ投手に転向。

すると、1999年には、当時パ・リーグでの最多記録となる26ホールドを達成し、中継ぎ投手として開花。

その活躍ぶりから“炎の中継ぎ”と呼ばれ、26年ぶりのリーグ優勝・35年ぶりのチーム日本一にも貢献し、当時の王監督の継投策・「勝利の方程式」の1人とされた。

 

藤井は、「王貞治監督を胴上げすること」という入団当初の目標も達成することとなった。

 


画像:yahoo!ショッピング【送料無料】BBM1998 福岡ダイエーホークスチームセット レギュラーカード No.FD11 藤井将雄

藤井将雄さんの末期肺がん闘病の経緯

1999年シーズンは、最多ホールド投手となり、チームの優勝・日本一にも大きな貢献を果たした藤井。

まさにその絶頂の中で、病魔が彼を襲い始めていた。

 

チームの優勝の可能性が少しずつ見え始めた1999年の夏頃、藤井は試合中のマウンドでも咳き込むようになる。

9月末にリーグ優勝を決めると、藤井は10月の日本シリーズ開始前に検査を行い、医師から入をが勧められることに。

 

しかし、藤井は「迷惑をかけたくない」と、日本シリーズにも登板した。

そして、日本シリーズの優勝パレード参加後に精密検査を行うと、その2日後に“余命3か月の末期の肺がん”が発覚。

ご家族の意向から、本人にその病名は告げられなかったものの、そのまま藤井の入院生活が始まる。

球団の上層部や王監督、若田部健一投手など、一部のチームメイトなど身近な人のみが正式な病名を告げられ、藤井本人には、「間質性肺炎」と偽った病名が伝えられた。


▶「福岡ソフトバンクホークスのヒミツ ~若鷹軍団の「あるある」100ヵ条!」をAmazonで購入する

余命宣告でも「契約更改・年俸倍増」…王監督の想い

“生きる希望を失って欲しくない”― 女手一つで育ててきた藤井の母・正子さん、姉・マリ子さんは、藤井の余命宣告を告げられても、復帰を目指していた藤井自身の意志を尊重し、球団側へ無理を承知で、来年の契約更改を申し入れたそうだ。

プロスポーツの世界で、出場の可能性のない選手の契約更改など、普通では考えられない。

 

しかし…。

1999年12月、チームが出した答えは、来季も契約更改、しかも年棒は倍増の4,800万円だった。

 

実は、監督だった王貞治は、藤井の家族との話し合いの際、「何も心配しなくていいですよ、契約更改は必ずします。ダイエーはそんなケチな球団じゃないですから」と伝えたというエピソードも。

また、藤井本人には、「ゆっくり焦らず治療してください」、「若手がバテはじめる6月に照準を合わせて戻ってきくれれば、それでいいですから」と、藤井の復活への希望となるコメントと告げたという。

 


▶「もっと遠くへ (私の履歴書) 」をAmazonで購入する

「まだ結果も出せていないのに、1軍には上がれない」

藤井は、復帰に向けて病床でもリハビリやトレーニングを行うようになり、2000年のシーズンに入ってからは、入退院を繰り返しながらも2軍の練習に参加。

さらに奇跡とも言える復活で、2軍の試合にも6試合登板した。

王監督が藤井に対して「はやく一軍にあがってこい」とエールを送ると、それでも藤井は「まだ結果も出せていないのに1軍には上がれない」と答えたといいます。

 

しかし、2000年6月末、2軍での登板を終えた藤井は倒れ込んでしまい、再入院。

その後、藤井が1軍に登板することはなかったが、一方、チームは2000年シーズンも2年連続のリーグ優勝を果たします。

藤井も病室でその光景を見届けた。

 

そして、リーグ優勝から約1週間後、藤井は10月13日に31歳でこの世を去った。

余命3か月の宣告から、約1年後のことだった。

 


▶「卓上 福岡ソフトバンクホークス 2020年 カレンダー 卓上 CL-586 」をAmazonで購入する

現在も愛される背番号「15」

藤井がこの世を去り、早くも19年という月日が経っているが、彼の野球に対するその熱い魂は、今でもチームに受け継がれている。

ホークス本拠地の福岡ドームの15番通路は、藤井の背番号にちなんだ“藤井ゲート”と呼ばれる通路がある。

藤井ゲートには、藤井のコメントが書かれたプレートが設置され、藤井の功績とチームメイトやファンに愛された証が刻まれている。

また、藤井の付けていた背番号「15」は、現在でも準永久欠番となっており、球団側の彼への特別な想いが伝わる。

 

もともとホークスは、25年前、1999年に日本一を果たすまでは、長年に渡ってリーグの下位を争う低迷チームだった。

選手の意識も低く、現在の常勝チームからは、程遠い姿だったと言われている。

しかし、藤井の最後の1軍マウンドとなった1999年の日本一以降は、何度もリーグ優勝や日本一を果たすなど常勝チームへと変化を遂げていった。

 

この過程には、「野球をしたい」という強い想いを持ちながら、病床でチームを見守りこの世を去っていった藤井将雄という選手の魂があったことを忘れてはならない。

 

参考:がんの治療費はどれくらい?

ところで、がんの治療費は、以下のような大きな金額がかかるとされています。

●乳がん:約55万円
●子宮がん:約60万円
●胃がん:約61万円
●肺がん:約65万円
●直腸がん:約71万円
●肝がん:約59万円
出典:厚生労働省 平成28年度 医療給付実態調査

がんへの経済的な備えは十分でしょうか?

がん保険は、がん治療の進歩とともに少しずつ変化していることをご存知でしょうか?

がん保険は、がんになってからでは加入することができません。

少しでも不安だと感じた方は、ぜひこのタイミングあなたにピッタリながん保険を、フィナンシャルプランナーに無料で相談してみませんか?

\がんへの備えが不安な方へ/

※満足度95%!話題の保険相談サービス